社会福祉法人ル・プリは、2017年4月1日にスタートした法人です。
まずその名前の由来を述べたいと思いますが、《ル・プリ》LE PLI は、フランス語で、襞(ひだ)のこと、英語のプリーツに当たるものです。
襞(ひだ)の特徴的なイメージの一つは、しわとしわが折り畳まれて、どこが内か、どこが外かよくわからないところがあるというものでしょう。今の福祉の仕事の中心的な課題もこれに似ています。ある課題を取り上げたとき、これは自分(たち)の問題、これは家族の問題、これは地域の問題、これは社会の問題というふうに、分ければ分けることができますが、それよりむしろ、どこをとっても、たくさんの要素が折り重なって現れるところに、この仕事の現在の難しさと面白さがあると考えられます。わたしたちは、これは向こう側のこと、これだけは自分がやることという感じではなく、この、内でもあれば外でもあるという、折れまがったところに立って、課題に向かって行き、その解決に当たりたいと思っています。
もうひとつ、襞(ひだ)を考えると、布のイメージがわいてきます。ひとは布に襞を作っては、身にまとうものにしてきました。実はこれも、わたしたちの福祉の仕事になぞらえられることができます。ある人との関係では、布でくるむような形で関係を互いに維持しなければならないことがあるでしょう。また、別の人との関係では、その人が自分について、きちんとした折り目がつけられるようにしていくことが課題となる場合もあることでしょう。その形はもっと様々にあると思いますが、いずれにしてもわたしたちには、ていねいに襞(プリーツ)を作り(使い)ながら、ともにある(Being-with)という実践が求められていると考えます。
この法人は、こうした考え方と感じ方に則って、支援の形を作っていきたいと考え、《ル・プリ》という名前を採用しました。
《ル・プリ》は、「くるみ会」、「試行会」、「杜の会」として、横浜市の各地域での実践を通じて、それぞれ成果を出してきた現場が統合されたものです。つまり《ル・プリ》は、この三法人が一緒になることによって生まれた新たな法人です。この統合によってわたしたちは、単に規模を大きくしたということではなく、支えなければならない人への支援を、より高い水準で充実させたいと念願しています。また、そのことはおそらく、個々の人を支えるだけではなく、地域や場所との新たな関係を作っていくことでもあると予想し、その具体化をなす準備をしています。
最後に再度《ル・プリ》が襞(ひだ)であるということに戻れば、先に述べた三法人の諸成果と諸課題をふまえたうえで、新しいフェーズでの実践に向かうために、襞(ひだ)のような折り重なりを作り、互いに互いを包み込みながら、自らの組織を作っていきたいと思っています。皆様の変わらぬご支援、また新たなご支援をお願い申しあげます。
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今年2018年は、明治の時代が始まってちょうど150年になります。もちろん、この150年には昭和20年の敗戦体験によって、日本社会が大きく転換したこと等がはさまっているので、直線的な150年があったわけではありません。この直線的ではないということの中には、日本人が苦労を重ねて欧米的な近代文学に参画しえたという出来事もあります。なぜならこの近代文学を手に入れたということは、日本人が近代的自我をもってしまったということであり、これは武家社会的伝統からの離脱という点で重要な歴史の折れまがりだったからです。
見出しに「日本文学120年」と書いたのは、現在の文学の地層の始まりは、国木田独歩の「武蔵野」であることは様々な観点から妥当だと考えられるのですが、その出現が明治31年、1898年だったからです。ここに日本文学は書き手の個人的内面(の真理)を―仮構的にかつ主題的に―記述しうる言語と技法と水準をもったのです。
わたしがこんな事実にこだわるのは、ものごとには始まりがあり系譜があるということを強く意識するからです。そして人間的事象の始まりには必ず時代の刻印があります。独歩もまた日清戦争の先をどう構想できるかという日本社会の緊張のもとで、その言語をあみだしたのです。
ル・プリが始まったことについても、われわれの思い以上に、渦中のわれわれにはつかみきれない時代の要請が刻まれていることでしょう。われわれは手探りで、だが能う限り遠くをみつめながら歩みを進めたいと思います。「ル・プリ2年」とは、そんなわれわれ自身へのエールです。まだ2年目、ここから始めていこうではありませんか。
※この文章は、社会福祉法人ル・プリ社内報『ル・プリ』Vol.2に掲載したものに、少し言葉を追加し修正したものです。
(宮内眞治)
ホームページにあるとおり社会福祉法人ル・プリが発足しました。今後もよろしくお願い申しあげます。今回は「くるみからの便り」に2015年(平成27年)に2回にわけて発表してもらった文章に、読み直して一部修正加筆したものを掲載します。これは、村上春樹のノーベル文学賞受賞の前に、彼の文学の優れたところを-それも最後にはこのわれわれの仕事とクロスするところで-書いておこうというもくろみで書いたのですが、2015年、2016年と、このもくろみは肩すかしをくいました。今後どうなるか分かりませんが、もし彼がノーベル文学賞を受賞したなら、わたしはやはり少し手をたたいて祝福したいと思っています。
■ハルキ・ムラカミ『羊をめぐる冒険』のこと
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ハルキ・ムラカミとは、もちろん村上春樹[1949- ]の海外での呼び名だ。今年ノーベル文学賞を取れるかどうか(今日は2015年10月5日)はともかく、彼の作品がたくさんの国で翻訳され、それぞれよく読まれていることは知られている。日本でも特に最近は、新しく小説が出版されるたびにすぐに百万部を超える数の本が売れる事態になっている。なぜそうなるかと言えば、村上春樹は、長編小説においてはすごいストーリーテラーぶりを発揮し、読み出すと次はどうなるのかを早くページをめくりたくなるように工夫されているからだし、短編小説においては読んだあと、忘れられないような場面やイメージが痛いほどあざやかに目の前に置かれるからである。だがこれは、ひとつの特徴でしかない。もう少し内側に入っていけるだろう。
ここでは長編小説の方を取り上げるが、彼の長編作品は、多くの論者が指摘しているように、シーク・アンド・ファインドの構造を持っている。それは、何か謎めいたものが提示され、その謎が何であるのかを探し求め(seek)、その真実をついに見出す(find)、という形式である。これは、面白い話を展開するために推理小説などで多用される手法だが、村上春樹の場合、推理小説を書きたいわけではない。
シーク・アンド・ファインドという手法は、彼が、すでに世界の文学が、その先端部分では物語を作れなくなっている段階(《ポストモダン》の文学たち)であることを十分にわかっていて、それでも物語を起動させてみたいという企図のもとにとった戦略であることを理解する必要がある。ではなぜ、それほどに物語を起動させたいのか。それは、いくら文学が物語を作れなくなったといっても、人間はなおも(自分の/他者から渡された)物語をしか生きていないので、どんなものであれその物語を振動させたり、凝縮させたり、くりぬいたり、動かせてみることができるなら、何らかの生の謎(実は生を駆動させているもの)がそこから放り出されてくることがありうるからである。文学は、これをさらに(虚構を使ってまで)特別な物語にすることによって、一方では、より鋭角的・抗(あらが)い的に探究のドライブをかけ、世界と自己への根源的異和としての生の謎に立ち向かう。またもう一方ではより遠くから折り返してくるかのように、より和解的・治癒的な方向で、生の謎のかたまりに手をかけようとする。そしてすぐれた作品はこうした試みに成功しているわけだ。(文学の価値は諸側面を持つので、この生の謎の問題ですべてが終わるわけではない。たとえば言葉の謎の問題に迫ろうとする作品もあれば、生を囲む時代の謎に迫ろうとする作品もある。だが総じてこうした謎という言葉で言い表している空白が、自分の目前で、あるいは自分と他者の関係において、感知されなければ、ひとはあえて物語を書いたりはしないだろう。)
実際、彼の最初の長編小説であった『羊をめぐる冒険』(1982年刊行)は、まさにそのシーク・アンド・ファインドの反復で成立している物語となっていた。それはタイトルどおり、謎めいた羊の写真を手がかりに、その羊を探す旅の物語であったが、この物語はさらに、物語の語り手である「僕」が、いなくなった友人「鼠」を探す物語と二重になっていた。
この二重の探索の過程が、はらはらドキドキするから、読者は作品をスムーズに最後まで追いかけていく。だが、追いかけたあげく見つかったものは、どこまでも深刻なものだった。それは先に述べた、生の謎のかたまりに十分見あうものとなっているだろう。「羊」の方は、人間に備わっているかもしれない(いや世界のどこかからなすりつけられ続けているのかもしれない)純粋な悪の暗喩になっている。この悪とは、人間をむしばみ、損なわせ、意志を萎えさせ、心身をひたすら傷つけ、ある場合死に至らしめるものである。また純粋なというのは、その悪の発動が、ただ人を傷つけ、損なわせること以外何の目的もないように見えるものを指している。
そんな純粋な悪の衝動も、案外われわれの身近にあるかもしれない。自分自身の何かがそんな悪に感応しているのを知って嫌な気持ちにあることもあれば、誰かの持っている、あるいはある人たちが占有しているそうした悪に、自分が捲きこまれそうになってぞっとすることもある。この純粋な悪は、この作品では、背中に星の印のある羊の邪悪な思念が、まずは「満蒙」での緬羊研究に行った若く優秀だった「羊博士」に入り、次に「右翼の大物」に脳の血瘤のように入っていき、次に「鼠」に入ることで現実化する(早くもネタバレになるが、「鼠」はそれを拒否して死ぬ)。
やや抽象的だったこの純粋な悪のアイディアは、その後も村上作品でキープされ、『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)の「五反田君」をかすり、『ねじまき鳥クロニクル』(1994、1995年)の様々な暴力衝動に散布され(やや通俗化された悪としては「綿谷ノボル」という存在)、『海辺のカフカ』(2002年)の「ジョニー・ウォーカーさん」に化身した。また、『アフターダーク』(2004年)では全編で、冷たい悪が、執拗低音のような響きのもとにうずくまっていた。さらに『1Q84』(2009、2010年)では、カルト教団がとりこみ保っている死の衝動と街々で生じるDVが交錯して反響する(『1Q84』に山羊の死体から出てくる「リトル・ピープル」は「羊」の一部を受け継いでいる)など、村上春樹は懸命に、この社会での純粋な悪の現実形態を造形し続けている。
暗い話になってしまったが、村上作品は、この純粋な悪に対抗したい、しかも本当は、それへの最終的な無化に至りたいと希求しているゆえに、希望は語ろうとしているのだ。これは『羊をめぐる冒険』の「鼠」のパートが開くものを見ればよくわかる。
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そこで、『羊をめぐる冒険』の二重の謎のもう一方、「鼠」のパートを取りあげよう。ここでは、表向きは友人の「鼠」がいまどうなったのかという謎があって、確かに物語はそれを明かしてくれるように進むかに見える。だが実際には、この作品はここから一気に、自分が自分のこころの無意識にどんなものを持って生きているのかという謎にまつわるものになっていく。
「鼠」は「僕」が高校生の時に知り合った同年齢の友人であったが、この物語が進展するにつれて、「僕」の分身のような位置を取り始める。十二滝町の山の奥にある羊の牧場の山小屋に「僕」が「鼠」を訪ね、一人っきりになって暗闇の中にしか出てこない「鼠」を呼び出すとき、「鼠」は「僕」の鏡に映った無意識でもある。あるいは「僕」の別の可能性を生きた分身でもある。「鼠」が次のように自分の弱さについて言うとき、それはとても苦しいものである分、それに見合った形で「僕」がそれを聴き取るには、苦労して山を越え、地下室を下り、暗闇を作る(待つ)状況を作らねばならなかったほどなのだ。
「鼠」は星の印のある羊の邪悪な思念に侵入され、それを拒否するため、すでに自分で死んでいた。でもどうしてそんなことになったのか。「鼠」は自分で説明する、「キーポイントは弱さなんだ。道徳的な弱さ、意識の弱さ、存在そのものの弱さ、全ての弱さ」。「本当の弱さというものは本当の強さと同じぐらい稀なものなんだ。たえまなく暗闇にひきづりこまれていく弱さが実際に世の中に存在するのさ」。この「弱さ」ゆえに、「気が遠くなるほど美しく、そしておぞましいほど邪悪な」ヴィジョンに引き込まれてしまったことになる。ではなぜ、自死をしてまでこのヴィジョンの取り憑きを拒否したのか。
それも自分の「弱さ」のゆえだと「鼠」は言う。だがそれは弱くて自殺したということではない。「俺は俺の弱さが好きなんだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ」。「鼠」には、この「弱さ」を抱えて、他のものにそれを譲らない「強さ」があったことになる。
だがここは、わたしの考えでは、作品にとって(も)、最も「弱い」部分だと思う。
なぜなら、「俺は俺の弱さが好きなんだ」というところだけでは、羊の思念の邪悪さにとうてい対抗できるものではないと思えるからだ。だから「鼠」は存在を抹消してしまうところまでいったといえばそれで終わりだが、もう一息、いやもう二息、三息、「鼠」は、弱さの由来を訊ねる場所に留まらなくてはならないのではなかったか。そのためには本当はこの先、自らの損なわれたもの、弱さ、衰弱感の由来として、父と母の問題が出てくるところにまで進まなくてはならないはずだが、それが出てくるのは、村上作品のもう少し後から(『ダンス・ダンス・ダンス』以降)になっていくだろう。文学は、村上春樹自身たびたび言及するように、それを作り出した作者の自己治癒、自己修復の機能も持っている。そしてその機能の発揮には、物語の中でもある修復が実行されなければならない。そこでは物語は、家族を問わなければならず、子どもだった存在を再訪問しながら、損なわれたものの修復や治癒を、際どく追いかけていくことになるだろう。それに対して、『羊をめぐる冒険』は、分身の一方的な破滅としてしかその過程に手をかけられなかった。「僕」を「鼠」に会わせてくれた「耳の彼女」も巫女の役割しか果たさぬまま消えていった(さらにいえば子どもも一人も出てこなかった)。「僕」は幻の「鼠」に頼まれたとおりに、「鼠」の死体と、そこから羊の思念(あるいはその影響力)をもらいうけたいためにそこを訪れた例の「右翼の大物」の秘書の男がいる山小屋を、時限装置のある爆弾で爆破した。
ただここに、ある時代を生きたやさしく弱かった魂への悲しみは残る。物語は最後に「僕」を泣かせている。
「僕は川に沿って河口まで歩き、最後に残された五十メートルほどの砂浜に腰を下ろし、二時間泣いた。そんなに泣いたのは生まれてはじめてだった。二時間泣いてからやっと立ち上がることができた。どこに行けばいいのかはわからなかったけれど、とにかく僕は立ち上がり、ズボンについた細かい砂を払った。 日はすっかり暮れていて、歩き始めると背中に小さな波の音が聞こえた」。これは、ある場所と時代を、どんなに小さくてもある果てまでいっしょうけんめい生きた人間が流す、かなり純度の高い涙だと思う。「僕」は「鼠」の死との対決(と受容)において、いつもの空虚感の少し先まで行ったのだ。自分の中での、どうにかまだいっしょうけんめい生きたいなと思う部分が、ここで解発されて、読んだわれわれも少し泣いてしまう、のではないだろうか。センチメンタリズムとは違う、生(のなかのどまんなかにある死)の回収という倫理の匂いがするのが、ここでのいいところだ。
生が死の方へ超え出たり、死が生のただ中で自分の感触を伝えてきたり、生の過程が急に曲がりその勢いで何らかの傷や小さな死を抱えこんでしまうような、生と死がある境界ですりぬけあっているような場所、しかも極めて個人的な場所がひとにはあって、そこは何とかくぐりぬけるか、何とか包み直していくか(誰かの手伝ってもらってさえして)、そっと別のものに形を変えていくかしかないものだ。村上春樹の小説は、この後その作業を続けることになるだろう。
このエッセイの題名を、あえてハルキ・ムラカミと名づけてみたのも、ハルキ・ムラカミが繰り返して発見させてくれるこの場所は、世界のどこでも、やさしい生を懸命に生きている人なら誰でも、そこに導かれることを納得する場所だと思うからだ。そしてもちろん、世界のどこででも、ということは、『くるみ会』(今では『ル・プリ』) のこの場所でも、この仕事においても同様だということだ。われわれが携わっている《福祉》もまた確かに、この境界の領域をたどる作業からはずれることはない。一人でそこにたたずむのか、誰かとそこを歩くのか、いつまでそこにいるのか、いつかそこを解きほぐせることになるのかは分からないとしても、だ。
まだ村上春樹については、われわれの仕事との関連で触れたいところがある。機会があればまた書いてみたい。
※ 2017年になって村上春樹の新しい長編小説『騎士団長殺し』が刊行された。今までの村上作品に出てきた様々なガジェットがこれでもかという具合に使われていて、自己模倣だという批評もあるだろう。だが、村上ほど作法意識の高い作家が単純素朴に自己をなぞったとは思えない。わたしの感じでは、それらは、最後に登場するあの決定的に重要な《メタファー通路》を見いだすために、様々な箇所を、なじみの点検ハンマーで叩いていったときの反応であるように思えた。
われわれの生は、ある特別の《メタファー通路》を通って、未生の生からこちら側の世界にやってくることによって始まっている。その始まりの《メタファー通路》を、もしまた抜け直すことがあるなら、どんな目印や文字がそこにあるのか、またあったのか。夢など、様々な手段で、それを知ってみたいと思う人はいるだろう。その人もたぶん、その通路を抜けきることはできなくて、また現実の今・ここに帰ってくるのだが、何かの感触は残る。村上春樹は繰り返しこの感触を表現しようとする。
そのことで言えば、今回は「再生」の感触があったに違いない。だがあの悪の問題はどうなったか。それはもちろん、「白いスバル・フォレスターの男」から「免色」の造形の仕方、それに、「私」が性的にかかわる女性たちの半分がもつエピソード、そこから「顔のない男」の顔のなさの意味の根本的あいまいさへと、ピアノ線のように張りめぐらされていて、悪問題の旋律を奏でている。そして、『騎士団長殺し』は、物語が終わった瞬間、また作品冒頭の、「顔のない男の肖像を書くことを約束したのに、まだその顔を描けていない」夢へと戻っていって、この課題が終わってないことを示す。
純粋な悪は、人の世の中心にありながら、(中心にありすぎるがゆえに)そのままではこの世に取り出せないという意味で、フランスの精神分析家・ジャック・ラカンの言う「不可能な」現実、レ・レエル(le réel)の一つである。この現実、つまり、ル・レエルの悪と、《メタファー通路》で出会い、この悪に対して・この悪よりも大きな規模の弔い方・を示すことで、とりあえずはその悪を鎮めるか、埋葬してもらいたい。この悪は不死身かもしれないが(※)、村上作品一流の仕方で、一度は、(本論2で述べた)「際どく」のラインをずっとたどって、それを鎮めてくれないか。わたしはなお期待している。
(※)ひとつの問いが残る。それは、ここで述べてきた「純粋な悪」は、はたしてすべての人のどこかに必ず巣くっているものなのだろうか、それとも、特定の環境を被った・特定の人(たち)が、特定の条件下で表出するものなのだろうか、という問いである。この問いは、「純粋な悪」は確かにこの世に現存し、かつ、この悪は、人間の「中心にありすぎる」ものである、というふうに指摘した以上、不可避的にめぐってくる問いである。わたしに、この問いへの明快な答えはまだない。ただし、人間には(a)対象を食べ尽くしたい衝動があり、(b)対象とどこまでも同一化したい衝動がある。この衝動は、そのままでは悪でも善でもないが、ある種の(性的)倒錯形式に結びつくとき、強力な悪への動力になると思える。この意味では、この成分はおそらく潜在的にかなり普遍的なものとして、人間に内在するのではないか、と思われる。ただしそれの発露が「純粋な悪」のところへまで行くのには、また別の発条が必要だろう。今回はこの指摘までで終わりにしておきたい。
(宮内眞治)
(2017/04/07-04/17)
社会福祉法人くるみ会の法人本部は横浜市旭区金が谷の住宅地と里山の境といった場所にある。「金が谷」という地名もいろんな由来がありそうだが、そのことはまだ置いておく。
くるみ会がかかわっている方々は、知的障碍のある人(子どもを含む)、また、知的障碍と他の様々な障碍をあわせもつ人がいちばん多いが、視覚障碍のある人も、さらに、「児童養護施設」という制度のもとに運営されている施設に来た子どももまた、重要な支援対象者だ。
現在、施設が入所施設であるだけで、そこがそのまま障碍者を隔離する機能に加担しているというのは、単純すぎる思考ということになろう。施設自体が、以前にくらべれば飛躍的に地域に開かれようという取り組みをしている(災害時の対応などもわかりやすい分野だが)というタイプの問題とは別に、障碍のある人たちの生のたどり方には、必ず、この社会における関係の裂け目(クラック)が顔を出すという問題が表に出てくるからだ。例えば、ある人(ある子ども)が様々な理由で家族と一緒に暮らせなくなるとき、いや、ある家族が様々な理由である人(ある子ども)と一緒に暮らせなくなるとき、また、家族と一緒という状況から離れて、一人で暮らす上で自分だけではうまくいかないなら、誰とどういう関係を持てばいいのか、というような時、それが、スムーズに制度に乗っかるにせよ、やっとこさで制度に乗せるにせよ、ひとがそのままでは背負いきれない関係の相が様々に現れてくる。目をつぶらずそこを覗くと、多種多様な関係の裂け目(クラック)があるということになるわけだ。わが国において、福祉施設は、その裂け目に沿って存在しているものなので、施設はもともとが社会のありようの合わせ鏡として、社会に開かれているのであり、かつ、社会が自分の現在の有り様から脱却していこうというとき、自らがどこまで脱-社会化を構想しそれを実行できていくのかの中継点としても、徹底的に社会に開かれているものである。障碍(つきつめればすべて関係の障碍)、精神の病気・不具合・失調、貧困、暴力、養育の失敗、超老人期の実存のニーズの不明さ、…、これらは今述べた裂け目(クラック)の系列であり、われわれの仕事を系譜的につないでいるものだと言える。
ここまでおさえておいた上で言うなら、われわれの仕事はおそらく、ミシェル・フーコー[1926-1984]が、1975-1976年度コレージュ・ド・フランス講義『“社会は防衛しなければならない”』において述べた「底辺」にかかわっていると思う。すなわち、人間の社会と歴史のうごめき方と進み方、変化の仕方について、人々がこれから、今までのとは自ずから異なる知の解析の軸を構想しなければならない時、一つには、ある底辺への(からの)軸というものを考えなければならないというのだ。「その底辺[の軸]には、根底的で永続的な非合理性、つまり生(なま)で剥き出しだが、そこにおいてこそ真理が閃光のように射し込む非合理性がある」(筑摩書房版57頁)。この底辺は、簡単には、伝統的な理性や合理性に回収できない(させてはいけない)まま、独特の重量ゆえの鈍い光を放っているはずのものだ。そこをつかみ、そこへ降り、そこを解析し、そこを救抜する必要がある、というのが、わたしの理解するフーコーの言い分である。強力きわまりない指摘だと思う。本当に、われわれは、われわれなりの仕方で、そのような一歩を進めなくてはならない。われわれには、この非合理性と、そこに閃光のように射す真理とを調停する領域を見出しつつ、実践の理論を作り、かつ、ずらし、また再編していく必要があると言ってよいだろう。
これからのわたしの文もどこかでこうした作業につながっていけばうれしい。
※フーコーの講義『“社会は防衛しなければならない”』の今回の引用部分は、小林康夫氏が『吉本隆明全集4』(2014年9月刊)の月報で、「吉本隆明、一本の樹の出発」というタイトルで書いた文章において引かれた部分と同じである。短いエッセイだがいろいろ考えさせられた。小林氏の「出発」という文脈からはちょっとずれて、わたしの側の見通しになるが、吉本隆明[1924-2012]の「大衆の原像」という概念と発想は、確かにこのフーコーの「底辺」と交差している。
(宮内眞治/記)